武田流合氣術の由来

武田流には、二つの流れがあります。
一つは時代の流れに逆らい古きものをそのままに伝えゆく古伝兵法の流れ。
もう一つは時代の流れに合わせ進化した合氣之術。

そもそも合氣と言う呼び名は近年の呼び名であり、武田流でも元来は柔術でした。
武田流の柔術の原形は江戸時代中期より発生したとされます。
戦国の世を終え、敵を討ち取り、武功を上げる武術から、城や主を守り、家を守る武芸へと、時代が変化するなか、武田流でも捕り抑えの技などが研究され、稽古に取り入れられたとされております。

 


武田流柔術から合氣之術へ

元々武田流の兵法術には柔術はなく、八芸に分類されたのちも、體術という名の当て身や投げなどを取りまとめた術でした。
柔術にある固め技や締め技などはごく僅かで、どちらかと云えば相撲や拳法に近く、現代で言われる古具足的なものでした。

武田流柔術と体系されたのは江戸時代中期に武田流中極意の巻の中にある、無手技の内から、鷹之爪、野中之幕、力抜之秘事、満月之菊、方円の五つの極意を取り出し、合氣之術の原型なる柔術が出来たとされております。
この合氣之術の原型なる柔術は明治を越え昭和にかけ受け継がれてゆき、合氣之術中興の祖、大庭一翁先生へと伝えられました。
一説によれば、武田流より創りあげられた柔術は、大庭一翁先生により武田流合氣之術と改名されたとも言われます。

 


四十三代 大庭一翁武幸
大庭宗家は当時、北九州の矢倉山辺り(現在は地名が違います)に道場を建て聖武殿を発足し、門弟を育てる傍ら、武田流合氣之術を広く世に広めた方でもありました。
昭和二十一年秋に、地元北九州の戸畑公会堂での演武が公の場での初めての演武であったと言われます。

また当時は戦後間もなき時代。
武術に対する世間の目も厳しく、武田流古伝兵法術の相伝家達も表だった活動を避け、人目を忍び武術をするなかで、唯ひとり大庭宗家が合氣之術を世に広め、武田流の発展に一命を捧げたと言われます。

大庭宗家の発展はとどまる事がなく、聖武殿本部を東京に移し、同じくして独自の武道連盟を立ち上げました。
この武道連盟には、当時の名のある武道家達が加盟していたようです。
聖武殿のみならず、福岡の矢倉山道場でも名のある武道家達が出入りしていたと聞きます。

(下段左から二人目が大庭一翁)

合氣之術の変貌

聖武殿や武道連盟が大きくなるにつれ、過大なる宣伝なども行われるようになり、各武道家達への批判もありました。
また名のある武道家達の出入りが頻繁になるにつれ、元々武田流にはない技が取り入れられたり消されたりと、技術体系にも変貌があったようです。
門弟達が他流をも修行し、技を合わせ、独自の武田流を名乗る者も数多く出てきたと言われます。




四十四代 池田一晶幸継

武田流合氣之術を杖術、鉄扇術と共に大庭一翁より皆伝
古伝兵法八芸を相伝家より皆伝

池田宗家は、大庭宗家の矢倉山道場時代からの高弟であり、大庭宗家が東京へと本部を移したのちも初期の合氣之術をかたくなに守り修行されておりました。
また合氣之術のみならず、付き合いの縁遠くなった古伝相伝家達とも交流を持ち、合氣之術と共に相伝家達の道場へも通いつめ、二つの道場を掛け持ちながら修行されてきたといいます。

 

池田宗家は皆伝を受け、矢倉山道場の師範代及び宗家代理の任を任されておりました。
また同時に古伝兵法相伝家達と共に合氣之術以前よりなる武田流古伝兵法の保存継承に貢献されておりました。

二つの道場を掛け持ち、慌ただしい生活の中、四十三代大庭宗家が病に倒れ他界との知らせを受けたといいます。
大庭宗家他界の後、残された古伝相伝家、及び大庭宗家のご遺族達での話し合いの結果、四十四代宗家を襲名しました。
池田宗家は襲名後、大阪に住まいを移し合氣之術を広めておりました。
しかし、合氣之術を広めるにあたり、近代化し、多数の分派の生じた合氣之術に限界を感じたといいます。
武田流を昔のまま、元の姿に戻そうと決意を固め、福岡北九州に戻り、当時数名しか残っていなかった古伝相伝家を訪ね歩いたといいます。

  


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