武田流兵法の由来

始祖.清和源氏新羅三郎義光より伝わり甲斐武田家に受け継がれた兵術と伝えられております。
天文十年の頃武田信虎が息子、武田信玄に追われ駿河の今川に捕らわれの時、九子信友に兵術を相伝。信友は房総へと移り勝千代へと伝えられた。
この時弓馬、軍場の術が失伝し残る兵法術のみが相伝されたと伝えられております。勝千代は武将石田三成の計らいにて黒田藩へと客身と招かれ、これより武田の兵術が九州へと伝えられました。


  


九州での武田流兵法

黒田藩では長政公をはじめ、家臣達の庇護のもと一部の者達に兵術を教えると共に、当時黒田藩並び近郊の武術家達と交流を持ち、更なる修行と共に流儀を守ってきました。
また黒田藩では旧武田家の家臣も数多く召し抱えていたようで、なかでも軍法では長沼流軍法に並び、甲州流香西派なども採用されており、香西派と共に黒田藩の練兵術として組み込まれていたようです。
今でいう福岡の平尾あたりに黒田藩の練兵場があったとされております。

  


武田流兵法八芸のあらまし

元々武田流の兵法術は、剣術や柔術等の呼び名もなく、軍法や忍術的要素までも含む戦場色の強い総合的なものでした。
九州に流れ着いたのち歴代の宗家達が體術、長刀、剣術等に技法体系を八つに分けたと伝えられております。
現在は、特別な演武や神前奉納等儀式の時のみ古式のまま演武がなされます。

 


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